趣のある町並みには、雨がよく似合う。
ここは江戸時代に国学を学問として興し、契沖(けいちゅう)、賀茂 真淵(かものまぶち)と合わせて三哲と呼ばれる本居 宣長(もとおりのりなが)が生まれ育った町、松阪。そして宣長は商家の生まれ。松阪といえば、江戸で松阪もめんの大ブームを起こした豪商たちが暮らした町。以上、教科書で習った内容・・。
歴史に疎い私は最近まであまり宣長に興味がなく、持っている知識はその程度だった。しかしコロナ禍で時代が急変し、何かと物事を判断することが増えて迷うことも多くなった矢先、宣長が生み出した「本と末(もととすえ)」という考え方を知り、甚く感動した。
「本と末」は、本末転倒のそれで、簡単に書くと、「なぜこの問題があるのか」という迷いに対し物事に優先順位を付ける際の価値判断基準だ。
では「本」とは何か。
私は人間。日本人。生きるために食べる。これは揺らがぬ大前提なので「本」である。
好きな清涼飲料水はコーラ。これは変わる可能性があり、周囲の人にも重要なことではないので「末」。宣長は「本」の中にも「本」と「末」があると説く。
そのように必要性や重要度によって物事を格付けするので、宣長は判断に迷いがなかったという。
一人の人間として本質を追究した宣長の面影を追いながら、松阪の町並みを散策した。
松阪豪商のセンス
宣長が暮らしたのは松阪市魚町。宣長も商家の次男として生まれた。早くに兄を亡くした宣長は、跡継ぎになるはずだった。商売の修行を行ったが、その才能がないと判断した母は学者の道をすすめた。
宣長の母は親戚のおじさんや、実家の前にあった紀州藩御目見得医師 小泉見卓の家に相談に行き、宣長は23歳で京都に渡り医学と儒教を学ぶことになった。28歳で帰郷し開業。町医者として生計を立てながら、研究が未開発だった古事記や源氏物語の研究を行う国学者として72歳で生涯を閉じた。
そんな宣長が過ごした当時の雰囲気を感じたい。
魚町には豪商 長谷川家の旧宅(旧長谷川治郎兵衛家)があり昨年4月から一般公開をしている。館長の松本 吉弘さんにナビゲートしていただいた。
屋敷に入ると大きなお竈さん。
江戸時代、お伊勢参りの参拝者で賑わった松阪。宿から溢れ、近くの河原で野宿をする旅人に豪商たちは食事を振る舞ったそうだ。
台所と蔵を抜けると大きな飛石と、雨に濡れて映える苔。飛石には、お寺の基礎石として使われていたものもあり見応えがある。
広々とした庭園には社(やしろ)があり、夏は池に睡蓮が咲き誇り、秋には紅葉に染まる。
皇室もお招きした大正座敷広間には、松阪商人の粋を感じる匠の技。
寸分の狂いなく細い竹に木が通されている、夏仕様の簾戸(すど)。
欄間は一見すると違う色の木の組み合わせに見えるが、実は同じ色。削る角度を微細に調整し、光の反射角まで計算して異なる色味を愉しませる。
豪華絢爛を求めず、質素倹約ながらも遊び心ある松阪豪商のセンスは、粋が誇りの江戸っ子に愛された松阪もめんの縦縞模様のような削ぎ落とされた美的感覚がある。
帰りに玄関へ向かいながら、美しい中庭を眺めた。
茶道のわびさびの世界に欠かせない、錆び色が美しい鞍馬石と奥には苔むした灯籠。
松本館長が、これは織部灯籠(キリシタン灯籠)だと教えてくれた。
キリシタンと言えば松阪という町の礎を築いた戦国武将、蒲生氏郷(がもううじさと)もキリシタン大名のひとり。氏郷は織田信長に気に入られ、その娘を嫁にもらい近江日野城主、伊勢松坂城主、陸奥黒川城主となった。
ところで私は以前から松阪の城下町の小路を車で走ると、運転しづらいと感じていた。これは氏郷が松坂城へ敵を攻め入りにくくするために、意図的にギザギザの区画を作った名残だという。
旧長谷川治郎兵衛家を出ると屋根にはうだつが上がり、江戸時代からある立派な松の木が目に入った。
豪商が過ごしたこの界隈を散策してみた。
情報が動けば・・
松坂城跡に移築された宣長の旧宅「鈴屋」。隣には本居宣長記念館がある。
旧長谷川治郎兵衛家の斜め前に宣長宅跡があり、建物は松坂城跡に移築されている。
そして歩いていると時折、こんなオブジェ(駅鈴童子)がある。
作者は奈良のせんとくんを作った彫刻家 籔内 佐斗司(やぶうち さとし)さんで、このアート活動を支援したのは、松阪を代表する老舗牛銀。
魚町筋から一本東の通りは参宮街道で、旧小津清左衛門家、三井家発祥地などがある。
ぐるりと一周、たった徒歩15分圏内に豪商たちが暮らし、伊勢へ向かう参拝者で賑わう町に宣長は生きた。人を介して全国から多くの情報がこの町に届き、江戸の発展とともに松阪もめんでこの町は栄えた。情報が動けば、経済が動くことをこの町の人は知っていた。本質を追求する宣長にとっても、生きた情報を得るには絶好の町だ。
ある時、宣長は万葉集などの古典研究で知られた憧れの賀茂真淵(かものまぶち)が松阪に滞在していることを耳にし、急ぎ宿へかけつけ、後に「松阪の一夜」と呼ばれる運命の出会いを果たすことになる。情報と出会いが行き交う場所、それが松阪。
旧長谷川治郎兵衛家から徒歩1分のところには豪商のまち松阪観光交流センターがある。
町の成り立ちを学べる展示があるので、松阪ビギナーにもおすすめ。
その隣にある松阪もめん手織りセンターに立ち寄った。
粋なオシャレを楽しむ
昔ながらの藍染め製法で作られる松阪もめんは、おとなり明和町に残る御糸織り(みいとおり)の一業者のみが糸から一環製造。
本来の自然素材にこだわり、伝統も受け継ぐ松阪木綿振興会は、一度途絶えてしまった松阪もめんの文化を復興しようと約40年前から活動を行ってきた。その技術や作品を多くの人に知ってもらおうという思いのもと、松阪もめん手織りセンターが誕生した。江戸では庶民が贅沢品とされた絹などの着物を着ることが禁じられ、そこで人気になったのが松阪もめんの着物。
丈夫なもめんで作られ、日常使いとしても扱いやすく、例えるならジーンズに近い存在だ。
ここでは御糸織りの松阪もめんを使ったアイテムが約800点が揃う。
織姫体験(手織り体験)も行っているので、松阪もめんの世界に触れたい人におすすめ。
松坂城跡から眺める御城番屋敷(武家屋敷)
ここで少し、松阪の特長について触れておきたい。
松阪は紀州徳川家が納める紀州藩の飛び地だった。一般的な城下町は武家が多いが松阪は商人の割合が高く、武家屋敷と豪商の町ができた。第二次世界大戦で大きな被害がなかった松阪の町には、今でも当時の町並みが残る。そんな情緒ある町に、明治期からの建物をリノベーションした呉服屋がある。
江戸時代のユニクロ
場所は毎年3月の始めに県下最大の初午大祭を行い、厄払いや参拝者で賑わう岡寺山継松寺(おかでらさん けいしょうじ)の斜め前。
松阪駅から歩いて約5分のところにある「うつくしや東村呉服店」。
カフェ&スペース、まちかど博物館、蔵を改装した民泊施設、そして呉服屋からなる。
店に立つのは東村佳子さん。
うつくしやでは、松阪もめんの着物の着付けや、着たまま町歩き、松阪牛を松阪流すき焼きで食べるワークショップなど様々なイベントを手がけている。
うつくしやHPより
2018年にはニューヨークのジャパンフェスにも出店したり、伊勢神宮に訪れる外国人が民泊施設を利用するなど、着物を軸に日本の文化を発信する。
東村さん:当時江戸の人口が100万人。松阪もめんは年間50万反以上売り上げていたそうです。江戸時代のユニクロですね。
そう明るく話す東村さんは、宣長ファンの一人でもある。
東村さん:宣長が賀茂真淵と人生で1度だけ出逢って、その後の生き方の方向性に影響した宿の名前は新上屋(しんじょうや)という旅館でした。いまはカリヨンビルという場所になっていますが、「松阪の一夜」にちなんだ、新上屋という和フレンチのお店もあり、人気ですよ。
まるで松阪のナビゲーターのような東村さんなので、松阪ビギナーも気軽に立ち寄りたい。
ちなみに夏のおすすめは、自家製フルーツソースのかき氷やシソやウメのドリンク。こだわりの氷を使ったかき氷は、セルフで削れば器にお好きなだけ盛れるというユニークな仕組み。冬はお手製のぜんざいも人気がある。そもそもカフェやイベントを始めるきっかけは何だったのだろう。
東村さん:以前は店に着物がずらりと並んでいました。だけどお客様が来ない日も。そんなとき「着物を着て町を歩きたい」というお客様が来たんです。着物について呉服屋と皆さんの概念が違うことに気付きました。まず「着物を着てみたい」。そう思ってもらうことが大事なんだと思いました。
そう思い至った東村さんは、多くの人と繋がることを考えカフェの構想を練り始めた。ある日、娘さんの進学で京都を訪れた東村さんは、割れた食器の金接ぎを見て美しいと思った。
民泊施設に繋がる廊下には、昔から使われている石でできたレトロな洗い場。
東村さん:古いものに関心がなかったのですが、それがきっかけで蔵の中に昔からあるものが宝の山に感じたんです。
うつくしやに散りばめられているレトロなアイテムや什器など、スタイリッシュな店のアクセントになっている。
リノベーション時に壁を剥がしたら出てきた、当時の大工の計算式はあえて消さずにそのまま使う。
最初は知り合いづてに口コミで広がっていったカフェ・スペース。今ではカフェを通じて、地域内外から幅広い年齢の客が訪れている。
東村さん:いろんな出会いがあり、ここは会うべき人に会える場所。そんな感覚になります。
いま地域の場づくりが注目されている。
カフェ、コワーキングスペース、シェアオフィス。形態は違うが、そこに価値観が合う人が集まることで、本来の目的外の楽しみが増えることが多い。宣長も当時の社交場だった寺や歌会に積極的に参加していた。そして上も下もなく輪になって座り、それぞれが持つ情報を交換する円居(まどい)を大切にしていた。
人と人が出会い繋がることで、何かが生まれる。
もののあはれは、エモいに近い
今回、宣長を輩出した松阪の町を巡った。偉人、宣長は地域の人にも愛され続けている。国学を築いた宣長は、何を想い古事記に向き合い、何を想像しながら源氏物語を紐解いたのだろうか。その美的感覚についても最後に触れておきたい。
宣長は、源氏物語の本質を「もののあはれ(物の哀れ)を知る」と表現した。世の中のあらゆることに触れ、目にし、耳にして、心で本質に触れたとき、驚き、喜び、悲しみなどが沸き立つ。それが「もののあはれ」であり、心の底から人に伝えたくなり、気持ちが通じたときの喜びは増し、悲しみは癒されていく。
当時は源氏物語や古事記などの、美的価値が説かれていない時代。宣長は「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ、日本文化の美的理念であり、文学の本質であると唱えた。宣長は現代で例えるならキュレーターであり、アートディレクターでもあり、コピーライターでもあるように思える。いや、唯一無二の宣長は、そのような枠に収まることなく、現代人が想像もできない世界を頭の中で描いていたのだろう。
宣長が描いた「天地図」(国指定重要文化財・本居宣長記念館)
偉人が暮らした地を巡れば、教科書には載っていない新鮮な魅力が見つかる。時空を越えた偉人との出会いもまた、新しい何かを生むきっかけになるのかも知れない。
ところで、宣長の「もののあはれ」という概念は、若者が使う「エモい」という言葉に似ていると思う。感情が高まり、誰かに何かを伝えたくなる心の動きは「もののあはれ」を体験しているみたいだ。
記者
yusuke.murayama
取材協力
特定非営利活動法人 松阪歴史文化舎
旧長谷川治郎兵衛家
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松阪もめん手織りセンター
松阪市本町2176 松阪市産業振興センター1階
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うつくしや東村呉服店
松阪市中町1940
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公益財団法人鈴屋遺蹟保存会
本居宣長記念館
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